空海の書

空海は少年時代に王義之の書法を学び、入唐してからは当時流行していた顔真卿(がんしんけい)の書風も学んだようです。
彼の能筆は中国でも名高く、欧陽詢の真跡、八分書、鳥獣飛白書など数多くの書跡を携えて帰朝しました。
日本における芸術としての書は、空海にはじまるといっても差しつかえないでしょう。

空海が最澄に答えた返書3通から成るのが風信帖(ふうしんじょう)
張りつめた線の強さ、文字構成力の大きさ、空海の著名な真跡の中でも最高の位置にある作品です。

第一通の書きだしに「風信雲書~」とあることから名づけられ、三通の総名ともなっています。

第二通、第三通はそれぞれ冒頭の二文字をとって「忽披帖」「忽恵帖」とも呼ばれます。

第一通は宛所に「東嶺金蘭法前」と書きます。
東嶺 → 京都の東にある山 → 比叡山 のこと
金蘭 → 交じりの深くて固いこと → 最澄 のこと

第二通は宛所なく、文中の「左衛士督」は二人と懇意にしていた人物
第三通の宛所「止観座主」=最澄

言うまでもなく空海と最澄は平安時代の初期に並び称された高僧で、この二人は大変親密な関係にありました。

その他、空海が高雄山寺で金剛・胎蔵両界の灌頂を授けたときの人名を控えたメモ的な記録「灌頂記」があります。
これは空海の真筆であると同時に、二度の灌頂で最澄の名が筆頭に記されていることから、日本仏教史上の重要な文書としても有名です。
空海